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My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 prologue



「私、明日お休みを頂くので、お願いしますね」
終業後、隣に座る萌と前にいる六嶋にそう断ると、美幸は帰り支度のために机の中から財布や携帯を取り出した。
「そういえば、明日だったっけ?」
六嶋は卓上のミニカレンダーを手に取り、予定欄にそれを書き込んでいる。
「はい。いつもすみません」
「前もって言ってくれるんだから、全然構わないわよ」

毎月決まった日に尾藤は必ず休みを取る。
それは彼女が派遣社員としてこの会社に来るようになってからずっと変わらず続いていた。
「明日は雨みたいですけど、どこかにお出かけするんですか?」
まだここに来て日が浅い萌は、最初その習慣を不思議に思った。
確かに尾藤は派遣社員で、勤怠は派遣会社の管理下にある。だが、余程のことでもない限り休暇を申請しない彼女が、曜日や忙閑に関係なく何があってもこの日だけはきっちりと休みを取ると聞いたからだ。

「ええ。明日は夫と、その……デートなの」
佐東に出す届を見ながら、美幸が呟く。
「ええ、ダンナ様と。いいなぁ、結婚してからもらぶらぶじゃないですか。憧れちゃうな」
整理したファイルを胸に抱きながら「ああ、私もそんなダンナ様欲しい〜」と悶えている萌と「その前に彼氏でしょうが」と呆れた顔をしている六嶋を見て、美幸は少しだけ笑う。
そして書き上げた届と派遣会社に出す勤怠表を一緒に付けて、上司である佐東のデスクに向かった。
「いつもご苦労様、明日は……ゆっくりしてきてね」
「ありがとうございます。お願いします」
事情を知る佐東に気遣わしげな目を向けられたが、美幸はそれに気づかないふりで一礼すると、自分の席に戻ってパソコンを切り、机の上に物が残らないようにきれいに片づけた。
「それじゃ、お先に失礼します」

いつも通り、ほぼ定時で引き上げていく彼女に、部内のあちらこちらから「お疲れ様」の声が掛かる。
それを見送りながら、萌は向かいに座る六嶋に聞いた。
「尾藤さんって、やっぱりご結婚されていたんですね。最初は私、てっきり独身だと思っていたんですけど」
「そうね。あんまり所帯じみていないから、そう見えるのかしらね。でも彼女、結婚指輪しているでしょう?少し前に上から直接雇用の話があった時も、家の都合で、って断ったみたいだし」
「派遣のままなんて、勿体ないですよね。あんなにお仕事が早いのに」
「まぁひとそれぞれ事情ってものがあるからね。それよりもメグ、ちょっとは彼女を見習って手を動かさないと、あなた、今日はそれが終わるまで帰れないわよ」
「ひぃー、そんなぁ」
「当たり前です。社会人は甘くないのよ」
「ぐすん、がんばります」



翌日、萌に言われた予報通り、朝からしとしとと雨が降っていた。
そんな中、昼前に家を出た美幸は、電車とバスを乗り継いである場所に来ていた。
そこは高台の、海が見える小高い丘になっていて、晴れた日には、美しい風景が望める場所だ。だが、今日はどんよりとした灰色の低い空と、その下に広がる霞んだ黒っぽい海が見えるだけだ。
その中腹で海に背を向けて立ち止まった彼女は、そこでわずかに傘を傾けて差し掛け、自分の目の前に落ちてくる雨粒を遮る。
「博人、お待たせ」
だが、傘を打つ雨音が聞こえるだけで、答えは何も返ってこない。
美幸はその場にしゃがみ込むと、空いている方の手で目の前の、物言わぬ冷たい石を撫でた。
「博人……博人」
何度呼んでも決して戻ってくることのない人の名を、それでも彼女は呼び続ける。
思えば、彼を送った日も、雨のそぼ降る日だった。
こんな天気の日に一人でいると、寂しくてどうにかなってしまいそうだ。
「博人、何で私を置いて逝っちゃったのよ……博人ってば、黙ってないで何か言ってよ」
泣きそうに顔を歪めながらも、美幸の目に涙はなかった。
そう、あの日から彼女は泣くことができなくなった。それはまるで心が凍ってしまったかのように、どんなに辛くても悲しくても、不思議と涙が出てこなくなってしまったからだ。 二人でいた時にはいつも笑ったり泣いたり、時には怒ったりもした。
だが、一人になった今では、そんなふうに感情を表すことさえ億劫になってしまった自分を持て余し、どうすることもできないでいる。

吹き付ける海風に乗った雨に背中を濡らしながら、その場でどのくらい過ごしただろうか。
気が付けば辺りには少しずつ夜の闇が迫り、通路を照らす街灯が灯り始めていた。そろそろ帰らなければ、家に着くのが遅くなってしまう。
こんな気持ちで、誰も待つ人がいない真っ暗な家に帰るのは嫌だった。

「博人、帰るわ。また……来月来るわね」
美幸は差し掛けていた傘を戻すと立ち上がり、最後に一度墓石を撫でてから、来た道を引き返す。
その日、彼女の代わりに泣いているかのような雨は一日中降り止まず、美幸の肩を濡らし続けたのだった。




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